【寄稿】3.11の悔しい思い 強い組織は被災や失敗の記録を伝承・保全する
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毎年3月になると東日本大震災の記憶が蘇ってきます。肉親や友人を亡くされたり被災された皆様には、心からお見舞い申し上げます。著者も阪神大震災で神戸の実家を失い、家の整理に奔走する最中に、中学時代の親友が亡くなっていたことを知って愕然としたことが忘れられません。
仙台郊外の閖上地区は、海岸沿いの松林が美しい閑静な住宅街でしたが、地震発生20~30分後に津波が襲い始め、1時間後には濁流で壊滅状態となり、住民の25%に及ぶ1000名もの尊い人命が犠牲になりました。後に甚大な人的被害となった原因として、防災スピーカが故障し避難指示が伝わらなかった、市の津波ハザードマップでこのエリアに津波襲来は無いとされていた等が指摘されていますが、海岸沿いで大地震が発生した場合には、自治体や行政組織には依存できません。「自分で判断してさっさと高台に非難して先ず我が身の安全を確保すること」が最優先です。古くから「津波でんでんこ」が言い伝えられていた岩手県釜石市では、全小中学校生が地震直後から教師の指示を待つことなく各自で高台に避難して、人命被害を免れています。「釜石の奇跡」とも言われていますが、奇跡といわれるほど他の被災地では、津波被害の伝承が途切れてしまっていたのです。
参考までに「日本における主な津波被災史」一覧表をご覧ください。古くは複数の古門書に記録が残る確実性の高い津波記録から現在に至るまでの、主な津波被災の一覧表です。これを見て頂ければ、有史以来我が国は、繰り返し繰り返し、何回も大地震と大津波の襲来を受けていたことがわかります。残念ですが環太平洋地震帯の真上に日本列島がある限り、これは地理的な宿命のようです。対応策は企業も家庭も学校でも同じです。「近く必ず大地震や大津波が襲来する、その前提で備えること」しかありません。
プロローグ
3.11の忘れられない悔しい思い―「津波でんでんこ」
記録情報管理やアーカイブ研究者として、残念でならないことは「津波でんでんこ」が伝承されていなかったことです。「大地震直後には津波が来るので、自分だけで一刻も早く海岸から離れ高所へ避難すべし」という古来からの伝承が、ほとんど残っていなかったことです。
1.閖上(ゆりあげ)の痛恨事
閖上で被災された方から伺った話が忘れられません。「津波警報が発令され、しばらくしたら道路が渋滞をはじめました。地震避難中でも皆さんは交差点の信号を遵守するので、閖上から出ていく車線だけが大渋滞となり、直後に津波が襲来して次々に車ごと流されていきました。」
「津波でんでんこ」の意味は、「津波の非難は非常時であるから信号は無視、反対車線を逆走してでも脱出するべき。津波を見たら車を放置して少しでも高いビルや歩道橋に避難せよ」と理解するべきなのですが、多くの車が信号待ちで停車中に津波に流さてしまったとのことです。真に痛ましく、かつ無念でなりません。
なお多くの人が東日本大震災の経験から「地震発生から津波到達まで30分程度の時間の余裕はある」と思っているようですが、これは誤りです。津波は地震発生直後や数分で到達したケースもあります。1993年の西奥尻島津波は数分で到達し、子供を抱いて避難したお母さんが、祖母の家に立ち寄ったため流されてしまった悲劇が起こりました。ともかく「津波でんでんこ」なのです。「自分でさっさと高台に非難して、先ず我が身の安全を確保すること」です。逆に地球の裏側で発生した大地震による津波が太平洋を縦断して22時間後に到達したチリ地震津波の事例もあります。距離が離れた場合には、津波は長時間に渡って繰り返し何回も襲来すると記録されています。
2.繰り返し、繰り返し、大地震と大津波の襲来を受けていた
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